日々、多くの交通量でにぎわう 「中原街道」 は、江戸時代には東海道の脇住還としての役割を担っていました。江戸と平塚の中原を結び、主要な街道の一つとされてきました。日常的に使っている道路が、はるか江戸時代から人々の活気を運んでいたかと思うとまた新たな発見がありそう。しかも、少し調べてみるだけでも実は江戸時代以前より、この道は存在していたとも言われているのです。これからこの中原街道の今・昔を訪ねる 「道歩き」 をスタートしますが、今回は序章として中原街道について概要をご紹介します。
江戸時代に主要街道として賑わった道は、実は古代から機能していた?
現在では県道45号丸子中山茅ヶ崎線を通称として中原街道と呼んでいます。古代、宝亀2年 (771) 、今の埼玉県・東京都・神奈川県川崎と横浜一部を武蔵国としていた時代に、行政組織の変更によってルートの変更を余儀なくされたとみられています。現時点でまだ不明点も多いなか、それでも、直線的なルートであることや宮前区野川に隣接する付近から古代の役所跡と思われる遺跡が発見されたことなどから、中原街道は奈良時代の駅路だったのではないかという説が有力とされているそう。
ルートは虎ノ門を起点に平塚の中原まで。近世初頭には小杉と中原に将軍の休泊施設が設置され、陣屋と御殿が整えられていきます。しかし延宝2年 (1674) 頃になると、解体された御殿の跡地は畑となっていき、それに伴い、次第に中原街道の政治的機能はほぼ喪失されていきました。それから時が経ち、江戸時代には平塚で造られたお酢が江戸城へ運ばれていたことから、人々は親しみを込めて 「お酢街道」 とも呼んでいたのだとか。東海道の整備とともに脇循環へとなりますが、依然として沿線の物資や農作物の運搬に欠かせない道として、人々の生活に深く根差していきました。
人々の暮らしを見守り続けた、中原街道からはるかに望む富士の山
近代に入ると車社会に対応し、中原街道は拡幅工事や新たなバイパス工事などが行われていき、かつての街道風景は都市生活のなかで変容を続けていきます。そこで中原区では、 『歴史の道探訪 中原街道コース』 を設定し、かつての歴史を今でも垣間見ることのできる散策路を提案しています。
そして、この地に親しい人ほど愛する冬場の景色があります。
それは、中原街道から望む富士山です。
(K・Iさん撮影。ご提供ありがとうございました)
いかがですか?冬の冴えた空気のなかで、はるかに望む富士山の姿は、今も昔もこうして中原街道を往く人々を見守り続けてきたのではないでしょうか。また、A・Hさんからも、 「JRの武蔵小杉から武蔵中原へ向かう南武線の車窓から見える富士山は、とても気に入っています」 という声もお聞かせいただきました。
次回から、 「中原街道を往く」 では、実際に区の散策路を歩いてまいります。
(出典、参考:川崎市中原区 『歴史と緑の散策マップ』 、『中原街道を歩く 学芸員寄稿』 より)